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2009.10.15
2009.10.13
蚶満寺
象潟の景色を眺めながら「この田んぼが海だったら松島と同じ景色なろうな」と思う。
やがて蚶満寺に着く。
松尾芭蕉が最北の地として象潟を訪れたのは1689年(来象 1689年8月1日)。
想像したように当時はこの周囲は海だったようだ。
『奥の細道』では「松島は笑ふが如く、象潟は憾(うら)むが如し」と評した。同じように点在する島の景色でありながら、その表情の違いを言ったものだろう。
今も船をもやいだと伝えられる石が残っている。
1804年の象潟地震の海底隆起により陸地化し、現在のかたちになったという。
拝観料は300円。
境内はよく手入れがいきとどいていて気持ちがいい。
ひときわ目を惹くのがタブの木。司馬遼太郎の『街道を行く』でも紹介されている巨木。
樹齢1000年といわれているが、実際は300年ほどだろうという話もある。
2008.11.09
「平安の風わたる公園」
平泉の世界遺産登録延期は事実上の落選だといわれている。
延期の理由は「顕著な普遍的価値が証明されていない」というものだった。国道や高速道路そして新幹線が対象地域を分断し、高圧線の鉄塔も立ち並ぶこの一帯を世界遺産にしようと考えるのは無理があることを遠回しに指摘された結果となった。「この地域の歴史的価値を本気で大切にしてきたのか」と。
平泉奥州藤原文化を築いたのは藤原清衡。
清衡は横手の金沢の清原一族の元で子供時代を過ごした。
彼はもともと岩手の豪族である安倍一族の人間。前九年の役で清原一族に討ち滅ぼされて、母親とともにここに連れてこられた。
やがて後三年の役がおこり、最終的に清衡が生き残り奥州藤原家の祖となった。清原一族は滅亡した。
後三年の役とは一言でいうなら「身内の争い」だった。
「清原家に婚約のお祝いを届けに行ったら、碁に夢中になっていて相手をしなかった」というのが直接のきっかけとされているが、その背景にあるものがジツは本当の原因ではないかとワタシは思う。
当時の清原の当主は、清衡の他に実子も生まれていた。にもかかわらず、養子を迎えその養子に嫁を取ろうとした。これでは身内に不満が出るのは当然だ。
なぜそんなことをしたのか。
それは、強大な勢力を持っていたとはいえ所詮俘囚にすぎなかった清原一族が、皇族の流れをくむ人間を迎え入れることで、より「家柄」のブランド価値を上げようとしたためだろう。「血は争えない」というし「血は水よりも濃い」ともいうが、そこを理解していなかったと思う。
我が家から10分程度のところに、後三年の役をテーマにした「平安の風わたる公園」があるので先日、行ってみた。
後三年の役ゆかりの四人の人間がスクエアに向かい合っている像がある。それぞれ何か言いたいのではないかと思うような、そんな緊張感がある像だ。
蛇足ながら「藤原清衡」は「清原清衡」と表示すればよかったのではないだろうか。
2008.08.27
2008.06.28
羽州街道2
いつ何をしなければならないという制約がひとつもない特権をフルに活かし、夜明けを待って羽州街道は大仙市花館から院内までカブ。時速30キロで走ると普段見逃しているものが見えてきてとても楽しい。花館-大曲-六郷-金沢-横手-醍醐-十文字-湯沢-関口-小野-横堀-院内。
コロリ地蔵にお参りしてから「院内の関所跡」を経て秘湯「湯の沢温泉日勝館」でひとっ風呂。
橋を渡って宿への石段の昇り口には、温泉水の自動販売機がある。10リットル100円の表示がある。5、6人の方が容器をたくさん持って順番待ちをしていた。ガンに効くという話を聞いたことがある。「ここまで来ることができない病気の家族のためかな」などと勝手に解釈する。
「いっぱい出てますから、たくさん飲んでください。ゆっくりと30分くらい入るといいですよ」と温泉の主人。なるほど湯船にはこんこんとあふれ出る湯が注ぎ込まれている。ぬるめの湯はゆったりと気持ちが落ち着く。後から入ってきたお客さんが「おはようございます」と言う。そういえば先ほど出た方も「お先に」と言っていた。そんな挨拶が自然と出る温泉なんだなここは。
入湯料はうれしい300円。コインロッカーはお金が戻らないので注意(笑)。山道を走るとさすがのリトルカブもリッター70キロほどしか走らない(笑)。昼は我が家に帰って冷たいつけ麺。















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